タラワ慰霊巡拝の旅

祖父の戦没地であるギルバート諸島タラワでの慰霊巡拝の記録です。

慰霊巡拝2日目part2

3月2日
昼食休憩を取ったあと、私は現地在住のAさんに以前から知りたかったことを質問しました。
「この地で亡くなった方のご遺骨は何処に埋まっているのか」
ギルバート諸島で亡くなった方々の遺骨収集は進んでいません。今回訪れたタラワや同じ運命をたどったマキン。合計すると5,000名以上の方が亡くなって います。
旧滑走路の近く Aさんによると、この地を掃討した後、米国軍はベティオ島に日本軍が作った滑走路の周辺に埋めたらしいとのことでした。勿論お墓が あるわけではありません。穴を掘って埋めていったそうです。とは言え、このベティオ島内では4,600名余りの方が亡くなっているので、当然1か所に集めるわけには いきません。周辺にたくさんの穴を掘り、おそらく数体ずつ埋めていったと思われるそうです。
ただ、この旧滑走路周辺、現在は民家等が建てられています。遺骨収集については、そういった民家が何らかの理由で土を掘り起こした 際に遺骨が発見されると、調査団により日本人のものか調べ、確認がとれたものが収集されるに過ぎないとのこと。現時点までで日本に帰還を果たした遺骨は 400柱程ではないかということでした。 このあたり、というのが判明していても場所の特定が出来ない以上むやみに穴を掘って探すわけにもいかないそうです。
理屈はもちろんわかります。無理なことも理解できます。それでも感情としては、やはりお1人でも多くの方のご遺骨を日本に 戻してあげたい。祖母のように、空の白木の箱を開けた家族の気持ちを考えると、出来る調査はなるべく早く行って欲しい、そう思います。 民家が建っていない場所で、かつ、住民の方の理解が得られるようであれば、広範囲に調査を行って欲しい。それはやはり無理なことなのでしょうか。
また、私の読んだ本の中には爆撃によって出来た穴に埋めていった、海に流した等という記載もありました。いずれにしろ、この写真の緑 の奥には今もなお多くの方が眠っています。

そんな想いを抱えながら、次の目的地である「BETIO WAR MEMORIAL PARK」へ。ここは、南西角砲台の跡になります。
ここにも朽ちた砲台が、そしてコンクリートの囲いらしきものの残骸が残されています。すでに割れて いて、元の形がきちんと残っていない状態でしたが、やはりトーチカや銃座の跡なのでしょうか。

砲台とコンクリートの建物跡 何かの建物跡

砲台の天井部分の右側、よく見ると円状の穴が複数開いています。そして、コンクリートで出来た箱状の建物、こちらも 複数の小さな穴が開いています。米国軍が西岸から上陸した際、上陸地点から北西・南西に進行していきました。 おそらくその際の攻撃で出来た穴なのではないでしょうか。

天井部に穴のあいた砲台 中央建物右手に複数の穴

写真にも写っていますが、この戦跡周辺は非常に多くのゴミが落ちていました。拾おうと思っても拾いきれないほど。
落ちている…というより、まとめられているのではないかと思われる箇所もありました。所々に点在もしているのですが、コンクリートの建物の裏手に 大量のゴミが捨てられている所がありました。
そんな箇所をよけながら歩いて…いたつもりだったのですが、まるで落とし穴に落ちたように、突如砂の中に足が埋まりました。抜こうと思っても 抜けず、手で足を引っ張りだすようにして脱出。
臭い…。
何やらヘドロのような、腐敗した緑色っぽいドロドロとしたものが靴にデニムにべっとり付いていました。 やむを得ず海水に足を突っ込みドロドロを落としましたが、臭いは消えず、応急処置で終了。 ホテルにもどってから石鹸で洗いましたが、それでも臭いは完全には消えず、残りの滞在時間は薄らと臭いを漂わせた まま過ごすしかありませんでした…。
この後大桟橋(当時日本軍が使っていたものと同じ場所にあるようですが、桟橋そのものは新しくなっています)に寄り、第3特別根拠隊司令部跡地に 向かいました。

第3特司令部 民家側から撮った建物裏

司令部跡は戦闘の際に爆撃を受けているので、所々大きな穴が開いていますが、当時の建物のまま残っていました。団長Yさん曰く、建物に空いている 穴は以前来た時と比べ大きくなっているようだとのこと。戦いで空いた穴が、経年により更に広がっていっているのかもしれません。残念ながらフェンスに囲まれ、 中に入ることはできませんでした。また、建物のすぐ裏手には民家があり、居住されている方がいらっしゃいます。 本当にすぐ裏、建物との距離 はちょっとした庭程度です。塀等では囲われていない開放的な雰囲気のキリバスの個人のお宅、どこからが民家の土地かわかりません。民家側には立ち入らないよう 指示がありましたので、建物を1周することはできません。 放し飼いにされている鶏が2羽、民家側を歩いています。爆撃により大きな穴が至る所にあいている建物には余りにも大きなギャップが 感じられます。右上の写真は側面から手を伸ばして裏側を撮影したものです。こちら側の方が 建物の損傷が大きく、攻撃の激しさを物語っています。
私の祖父は3特根に所属していました。一兵士にすぎなかったため、司令部に入ることはなかったと思いますが、この近くは通って いるはず。1番祖父に近いことが確定している場所かもしれません。
元々厚生労働省の方は第3特所属だった祖父とMさんのお父様の慰霊をこの場で、と考えてくださったようなのですが、裏側の民家のみならず この周囲一帯が現在は住宅地となっているため、住民の方への配慮より中止にしたという経緯がありました。
実際に行ってみて納得。建物のすぐ前には大きな道路、住宅街(と言っても日本のように建物がすぐ使くに隣り合ってという感じではないですが)の中で突然慰霊の準備 を始めたらご迷惑に違いありません。そして、実際目の当たりにして感じたこと、ここには確かに過去祖父の属した部隊の司令部が ある、でも司令部そのものは過去のもの。この場所は既に今を生きている方の生活の場になっています。うまく言えないのですが、 ここは祖父への想いを抱くべき場所ではないと感じたのです。だから、本当はお骨のない祖父の為にこの場所の石か、なければ砂を 持って帰ろうと思ったのですが、止めました。すでに海岸で珊瑚の砂や貝殻等は持ち帰っていましたが、祖父の慰霊としてふさわしいのは この島で生活をしていた時に、おそらく癒されたであろう美しい海や空なのではないかという気持ちになったのです。とは言え、 自宅に戻ってからこの地での採取物がなかったことに父は少し残念そうでしたが…。今思えば父のために持ち帰れば良かったと思って いますが、ここには祖父はいない、その想いは変わりません。
ニッポン・コーズウェイから見るベティオ島 現在、ベティオ島は埋め立て道路で隣のバイリキ島と結ばれています。「ニッポン・コーズウェイ」と呼ばれるこの道路は、1987年に日本の 援助で作られたそうです。この道路があることで、満潮時でも車で島を渡ることが出来るようになっています。
激戦の地であったベティオ島は、今、タラワの首都機能を持つ3つの地区の1つとなっています。

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