タラワ慰霊巡拝の旅

祖父の戦没地であるギルバート諸島タラワでの慰霊巡拝の記録です。

タラワの戦いとは

タラワの戦いは、現キリバス共和国、ギルバート諸島にあるタラワ環礁で太平洋戦争下に繰り広げられた日米軍による戦いである。どのような 背景の下、日本軍が戦って玉砕をしたかについて概略を述べようと思う。

第一次世界大戦後日本はマーシャル諸島を含む中部太平洋にある島々を委任統治領とした。このことにより、日本軍はマーシャル諸島を 要塞化し前進基地を展開、その前哨基地となりうる当時英国領であったギルバート諸島を1941年12月10日、太平洋戦争開戦直後に無血占領 した。英国領とはいえ軍隊は存在せず、数名が常駐するのみであったため、日本軍は一番隊である178名の陸戦部隊によりマキン島を占領、 二番隊によりタラワ環礁の主島であるベティオ島を占領した。
タラワ環礁 米国では【恐怖の島タラワ】等と呼ばれているが、タラワは島の名前ではなく、ギルバート諸島内にある計24の島々から成る環礁のこと であり、その主島がベティオである。 ギルバート諸島はマーシャル諸島の東南に位置し、ハワイと豪州を結ぶ線上にある。そのため、この地を攻略し航空基地を設営する ことは、マーシャル諸島を守るとともに、米国と豪州の交通遮断、更に、フィジーやサモアの攻略に有効であると考えられた。
占領後、日本軍はタラワについては即日撤収、諸島北部に位置するマキンを確保し基地を築いた。しかしその防御は非常に 手薄で、わずか70名が常駐するのみであった。
1942年にはいると、日本軍は5月のミッドウェー海戦での敗戦や8月の米国によるガダルカナル島進攻などで守勢に立たされるようになった。 8月17日、ギルバート諸島方面における日本の防備の甘さに気付いた米国は、ソロモンへの反攻の牽制及び防備状況の打診を目的とし、 潜水艦にてマキン島を奇襲した。前夜ソロモン友軍の戦果を祝い祝宴を挙げていた(実際は戦局は悪化、ソロモンについても日本大本営は 実際の被害状況を歪曲し、日本軍の勝利と発表していた)マキン守備隊は寝込みを襲われる形となり、指揮官含む43名が戦死した。
救援の命を受けた谷浦隊(参考文献の項、「マキン、タラワの戦い」著者谷浦英男氏が率いる部隊)が21,22日 にマキンに急行、既に米国軍は撤退後であったためそのまま再占領した。更に谷浦隊はタラワ再占領を命じられ、9月4日、上陸を果たした。
マキンの奇襲を受け、日本海軍はギルバート諸島の増強を決定することとなる。
8月15日に編成、第八艦隊に編入された横須賀鎮守府第六特別陸戦隊(横六特)は当初南東方面、ソロモン戦域増強のため編成された 部隊であったが、急遽ギルバート諸島方面の増強にあてられ、隊員は8月24日に日立丸と神威丸に乗艦、横須賀港を出港した翌25日に第四艦隊附属となり即日タラワの防備に充当 されることとなった。
一行は9月5日にヤルート環礁イミエジ島に到着、13日に出港し、15日にベティオ島に到着、谷浦隊と交代し防備についた (その後谷浦氏は佐七特として再度タラワでの任務を命じられ再びタラワに赴任、玉砕3か月前にタラワを離ることとなった)。
横六特進駐後、ベティオ島の本格的要塞化が目指されるようになった。まずは第四建築部タラワ派遣設営班により1,300mの滑走路、宿舎、通信所、発電所、 司令部の建設が始められた。滑走路は12月末にほぼ完成し試飛行の後修正がくわえられ、翌2月末には完成した。
更には呉で編成された第百十一設営隊が松安丸と昌平丸に分乗し12月10日に東京を出発、20日にクエゼリン、23日に タラワに到着した。横六特の指揮の下、ベティオ島の防備施設、通信施設の装備にとりかかった。設営隊は大砲や高角砲の据付工事や 既設桟橋の補修及び木属桟橋の新設等の建設にあたった。
1943年2月15日に海軍戦時編成の改定により横六特は第三特別根拠地隊(三特根)に新編された。 3月17日、更なる増強部隊として佐世保鎮守府第七特別陸戦隊(佐七特)がベティオ島に上陸、連合艦隊附属のまま三特根司令官の作戦指揮を 受けることとなった。
元々佐七特は南東方面艦隊附属、イザベル島配備予定の部隊として館山砲術学校で編成され、2月28日に西貢丸と盤谷丸に乗艦し 横須賀港を出港していた。3月8日にトラック環礁に到着したが、タラワ増強が急務とされたため、配備変更となったものである。部隊は 3月12日に再び西貢丸と盤谷丸に乗艦しトラックを出発、17日にタラワに上陸した。佐七特は陸戦のプロとして訓練を積んだ部隊で あり、この後タラワ守備の主力となった。
横六特(三特根)にしろ、佐七特にしろ、情勢 により本来派遣される地域より急遽タラワに配置変更となっている。いずれにしろ激戦の地であることに変わりはないが、もしこの 変更がなければ運命は変わっていたのだろうか…。
4月23日夜から24日未明にかけて、ナウルを空襲した12機のB-24によりベティオ島への空襲が開始された。戦死者8名、滑走路や通信施設 等に被害を受けた。それまでも米軍偵察機はタラワ、マキン周辺に現れていたが、ベティオ島への本格的空襲は初めてだった。この頃より 米国のギルバート諸島周辺の攻撃が活発になってきたのである。
5月8日に連合艦隊旗艦武蔵司令官室にて聯合艦隊長官主催の内南洋防備会議が開催された。その席上古賀聯合隊長長官より、当面の 情勢判断及び所信が述べられた。この時点で日本海軍の兵力が米国の半量以下に低下していること、勝算が三分もないこと、海軍作戦 に関する限り玉砕作戦を行い米国に多くの損害を与えて時間を稼ぐ以外に道がないことなどが述べられていた。玉砕の半年以上前に、 タラワ、マキン守備隊の運命は定まっていたのである。
7月21日、柴崎恵次少将が三特根司令官に着任した。柴崎司令官は軍紀を刷新し、仏暁訓練と夜間訓練を実施、タラワ守備隊 は見違えるように鍛えられたと言われている。
絶対国防圏 8月初頭より大本営では絶対国防圏構想が検討され始めた。 8月21日、軍令部総長官邸において陸海軍領作戦部長の会同が実施された。ここで焦点として挙げられたのが、マーシャル、トラック正面が 後方要線から外されていたことである。討議を重ねた結果、南東については「極力維持」とする基本的構想が固められた。24日に両総長 により内奏された南東方面全般の作戦指導方針は「現戦線において持久を策し、この間、後方要線の戦備を固め、明春までに反撃作戦 を準備する」というものであった。そして、9月30日、御前会議において日本が防衛線として絶対に確保しなければならない、 「絶対国防圏」が決定された。千島列島からマリアナ諸島、西部ニューギニアを経てスマトラ、ビルマに至るラインである。 この時、マーシャル諸島、そして、タラワ、マキンを含むギルバート諸島は正式に絶対国防圏の範囲外となった。
絶対国防圏の範囲外になる=撤退ではない。内南洋防備会議にて示されたように、時間を稼ぐために常駐し続ける必要があった。玉砕 するまで。
時を同じくして、米国によるタラワへの攻撃はさらに活発になっていった。
1943年初頭の米英仏三国首脳会議において、太平洋作戦の目的として日本軍を終始圧迫し、その攻撃のために所要要域の占領が 決定されていた。中部太平洋方面への作戦計画としては、1.南進計画(ソロモン・ニューギニア方面よりマニラに至る)、2.中央進攻計画 (トラック・グアムに向かい西進)、3.北進計画(アリューシャンから千島に進行)があったが、5月中旬に行われた米英首脳会談において 南進、中央進攻の併用作戦が決定された。
中央進攻計画の併用の決定により、その足場となるギルバート諸島が第一進攻目標とさせることが決まった。7月20日、米国統合参謀本部 は太平洋艦隊長官に対し、11月15日頃ギルバート諸島およびナウル島を攻略、翌1944年早々にマーシャル諸島を攻略するよう下令を した。この決定において、米国による攻撃が本格化していったのである。9月1日、ガルバニック作戦(ギルバート諸島攻略作戦)に関する 指令が統合参謀本部よりニミッツ太平洋艦隊長官に与えられた。その目的は、ナウル、タラワ、アパママの占領であった(その後 戦略的問題より占領目標がナウルからマキンに変更された)。
9月18日の夜から19日の未明にかけ、タラワにはB-24と思われる米国大型機による空襲が行われた。この空襲により戦死者128名、 行方不明者51名、陸攻9機が炎上大破しさらに被弾誘爆破、家屋の爆破炎上13棟、全壊20棟、滑走路の被弾6か所と日本軍は多大な 損害を受けた。
そして、この空襲時、米国においてタラワ攻略の最大の功績と呼ばれる写真が撮影された。タラワにおける日本守備 兵力の特定に使われた、日本軍の使用する便所が写ったものである。日本軍は1つの便所に対し何名が使用するかを決めていたため、 この数によりタラワ駐在の日本兵が約4,500名であると計算されたのである。この数は非常に正確なもので、その後の米国軍に よる攻略計画の策定において重大な資料となった。
この写真をもとに、米国はタラワに18,600名の上陸部隊を編成した。日本兵力のおよそ4倍である。
1943年11月19日早朝より、米国軍によるタラワ上陸前の本格的突撃が開始された。
タラワには正午までの間に戦爆連合廷150機、18機、280機、300機の4波、8機のB-24が来襲、日本軍の地上施設は破壊され、兵器や弾薬、糧食が多きな 損害を受けた。この時点で既に多数の戦死者が出ていると思われるが、日本軍の資料は残っていない為詳細は不明である。
20日早朝には米国機動部隊の艦上機郡がタラワ、マキン、アパママ、マーシャル方面に来襲した。タラワにはわずか3時間の間に廷70機、120機の2波が、マキン には40機、94機、機数不明、58機、40機、17機の6波が来襲した。
更に、タラワは艦上より約1時間砲撃を受け、午後には30機のB-24による低空銃爆撃を受けた。
この2日間の攻撃により、タラワの地上施設は壊滅的に破壊されたと思われる。
21日午前零時、タラワの北西18,000mに米国輸送船団が近接、2時より米国第2海兵団による上陸作戦が開始された。
日本軍は当初米国軍が島南側から上陸すると考え防備施設を整えていたが、実際の上陸拠点は北岸であった。上陸前日、 20日夕方から米国軍の狙いが西岸〜北岸にかけてであると察し、急遽防備施設を移動し陣地構築をしたが、度重なる攻撃に加え、兵士は 疲労困憊状態であったと思われる。
『タラワ新聞記者が語り継ぐ戦争2』に掲載されている、数少ないタラワからの生還者の方の手記によると、21日の 起床すぐ後に、軍事機密をただちに焼却する旨の指令が出たそうである。その中には日本の状況を伝える家族からの手紙も含まれて いたという。
また、同じく数少ない生還者である大貫唯男氏(三特根)の手記(完本・太平洋戦争上)によると未明に駆逐艦から発射された砲弾に より弾薬庫が被弾、大火災が起こりそれを目標とし次々と艦砲が撃ち込まれ、更に加えられた空爆により、食糧庫やその他重要物資 集積場が次々と炎上、全島が黒煙に包まれたという。

タラワ ベティオ島防備図



日の出前より米国軍戦艦よりベティオ島への攻撃が開始された。艦砲射撃は2時間半にわたり行われ、日本軍をあらかた壊滅させたと考えた 米国は3個大隊の兵力を6波に分け、第1大隊はレッドビーチ1号、第2大隊はレッドビーチ2号、第3大隊はレッドビーチ3号、グリーンビーチとそれぞれ担当海岸に分散し 島北岸への上陸作戦を展開した。
この時点で米軍は未明からの砲爆撃(火薬量3,000t)により日本兵はほぼ全滅若しくは既に逃げ出しているに違いないと考えていた。
しかし、上陸開始と共に潜んでいた日本軍は反撃を開始した。
海岸沿いに備え付けられていた砲台や機銃座に潜んでいた日本兵は上陸しようとする米海兵団に対し、怒涛の攻撃を加えたのである。 米国のアムトラック隊はこの銃撃により多くが破壊された。米国軍の戦死者の多くが、この上陸時の攻撃によるものであったと いわれる。特に陸戦のプロである佐七特が防衛を担当していたレッドビーチ1号においては、海岸にたどり着く前に米海兵隊大隊の 35%が倒れたのである。
6時35分、タラワから戦況が報じられた。

「敵ハ水陸両用戦車視界内一〇〇隻以上礁内桟橋ノ?北岸一帯ニ亘リ接岸シツツアリ 其ノ後?ニ上陸舟艇二〇〇隻以上見ユ  敵ハ礁内ニ軍艦又ハ巡洋艦特型三隻駆逐艦又ハ掃海艇四隻以上侵入掩護射撃ヲナシツツアリ 其ノ他ノ艦艇ハ礁外ニアリ  視界不良ノ為動静不明 上空艦上機水上機ヲ交ヘ数十機ヲ以テ制空中 全軍決死敢闘士気旺盛ナリ」(注:「?」は戦史叢書記載のまま)

この時点で島内の発電所は破壊されており、日本兵の攻撃の主軸は小銃や日本刀、手榴弾であった。
米国軍の上陸作戦のさなか、21日の14時後、三特根司令官である柴崎少将が爆撃により戦死した。柴崎少将は、米国軍の攻撃により 負傷した多くの兵士の収容所として司令部を明け渡し、別の防空壕に移動する途中、爆撃にあい亡くなったそうである。
その直前、13時30分、以下の報告を最後に日本守備隊からの連絡は途絶えた。

「飛行機及艦艇ノ砲爆撃ノ支援下ニ輸送船ヲ逐次港湾内ニ入泊セシメ人員資材ヲ引続キ揚陸 桟橋ニ通ズル南国線附近デ彼我 対峙中」

司令官、参謀、司令部員が同時に戦死したことにより、日本軍の命令系統は寸断され、当日米国軍が恐れた大規模夜襲をするにいたらなかった。 組織だった攻撃が出来なかったのである。 とは言え日本軍はこの時点で戦いを諦めたわけではなかった。各部隊の生存者で連絡を取り合い、反撃を試みていた。
22日早朝、米増援部隊が海岸に向け進撃を開始。日本軍も海岸に設置された砲台や機銃座より反撃、米国軍の上陸を阻んでいたが、 圧倒的な戦力の違いにより徐々に追い詰められていくこととなった。
日本の防備は主に海外沿いに集中しており、砲台や機銃座が潰されていくと、海兵団は上陸後は大規模な攻撃を受けることは少なく比較的容易に進攻をしていった ようである。機関銃や火炎放射器を用いたトーチカへの攻撃によりタラワの掃討は進められていった。
日本兵が個々に持つ武器は、小銃や銃剣、日本刀、手榴弾等である。鍛えられた兵士は一対一であれば負けはしないだろうが多勢に無勢、 且つ、米国軍の持つ武器は日本のそれを圧倒的に凌駕していた。更に米国軍には輸送船より武器や食料の補充がなされていたが、元より 武器や食料が不足しつつある日本軍には援助はなかった。
米軍は上陸後戦車の誘導などによりベティオ島を中央で分断、日本軍の連絡通信手段は次々と遮断されていき、更に陣地も包囲されて いった。通信手段は人の足、つまり、伝令による伝達のみとなっていった。
この時点でも生き残っていた日本兵は本部からの救援が来ることを信じていた。また、ここで日本軍が玉砕したとしても、連合艦隊が きて米軍と戦い勝利することを信じていた。大本営はギルバートへの攻撃を受け、聯合艦隊参謀長にギルバート支援の打診をしていた が、参謀長による増援作戦の実施予定の目途は11月27日、28日頃であった。増援部隊の編成もされたが、それ以前にギルバート諸島は 陥落、増援部隊がタラワに来ることはなかった。
日本兵は壕の中に潜み、攻撃のチャンスを狙っていたが、米軍は壕の中に爆薬や手榴弾を投げ込み爆破し、更に火炎放射器で壕内 を焼き尽くした。また、火炎放射器の熱さに耐えかねて壕から飛び出した日本兵はそのまま火炎放射器からの攻撃を受け、亡くなって いった。
これは過去の戦いで日本軍は負傷しても不利な状況でも絶対に攻撃をしてくることへの恐怖から進められた戦術でもあるようだが、 壕の中には多くの負傷兵もいたはずである。米軍が無抵抗の兵士を大量に殺害した疑いも拭いきれないのである。
この中には非戦闘員であった、設営部隊の朝鮮人軍属も多く含まれていたという。戦いから避難するために壕に隠れていた多くの 非戦闘員も同じく火炎放射器の犠牲になった。
日本兵士は徐々にその数を減らし、また、自決する者も多く出た。捕虜になることを社会的な死と考えていた日本人は降伏することよりも 自決することを選んだのである。
夜間、日本兵の生き残り約300名が総攻撃を敢行したが圧倒的な兵力の違いにより、米国に損害を与えることはできず玉砕した。
23日、米国軍は島の南部、東部を掃討し三特根司令部陣地も陥落した。この日の13時、米軍はベティオ島の掃討完了を宣言した。
前日までに島西半分を攻略した米国は24日早朝より島東端の攻撃を行った。日本からの反撃はなく、いたるところに自決と思われる死体が発見 された。わずかに生き残っていた日本兵は戦車に轢かれ、火炎放射器による攻撃により亡くなっていった。
この日、米国は「ベティオ島を確保」とその占領を発表した。
以降も生き残っていた数名の日本兵による攻撃はあったが、全て掃討された。それは攻撃と呼ぶには小さな、所謂死を覚悟した 『バンザイ突撃』であったと思われる。
前述大貫氏の手記には25日にわずかに生き残った日本兵で最後の突撃を敢行することになり、玉砕の報を日本に向け打電したとあるが、 21日13時30分の報告を最後にタラワからの通信は途絶えている。通信施設の破壊により、タラワからの報は日本に届いていなかった のであろう(その後大貫氏は他の生存者7名と自決を試みるも丈夫な紐も刃物も銃もなく、3週間程後に巡視中の米軍に発見され捕虜となった そうである)。
26日、米国政府はタラワ、マキンの完全占領を発表した。
一方日本側は玉砕の約1カ月後、12月20日に大本営により下記の発表がされた。

「タラワ島及マキン島守備の帝国海軍陸戦隊は、十一月二十一日以来三千の寡兵を以て五万余の敵上陸軍を邀撃熾烈執拗なる敵機の 銃爆撃及艦砲射撃に抗し、連日奮戦、我に数倍する大損害を与えつつ敵の有力なる機動部隊を誘引して友軍の海空作戦に至大の寄与をなし、 十一月二十五日最後の突撃を敢行、全員玉砕せり。
指揮官は海軍少将柴崎恵次なり。
尚両島に於いて守備部隊に終始協力奮戦せし軍属約一千五百名も亦全員玉砕せり。」


この戦闘における日本軍の兵力は下記の通りである。

第三特別根拠地隊902名
佐世保鎮守府第七特別陸戦隊1,669名
第七五五航空隊基地員30名
第百十一設営隊1,247名(主に軍属。朝鮮出身労務者含む)
第四設営派遣隊970名(主に軍属。朝鮮出身労務者含む)
戦死者4,713名
生存者日本兵14名 朝鮮人132名


ここに記載した兵力は米軍側の資料によるものである。日本側資料によると、総計4,601名である。但し日本側資料の部隊編成の資料は 編成時のものであり、正確な数字ではないのが明らかなため、米軍側資料を基に記載をした。
米国軍は1,009名が戦死、2,101名が負傷したとされる。


私の祖父の軍歴です。
亡くなっているとはいえ祖父の情報ではあるので、本来掲載するべきではないのかもしれません。
ただ、もし当時の関係者の方やそのご子息等でこちらの所属部隊についてご存知の方がいらっしゃったらお話を聞かせていただきたいと いう気持ちと、また、1人の人間がこうやって戦争にかかわらざるを得なかったことを知っていただきたいためあえて掲載いたします。

1932年(昭和7年)1月10日横須賀海兵団に入団
1935年(昭和10年)5月31日服役延期解止
1941年(昭和16年)8月30日充員召集により横須賀海兵団に入団
 9月16日東郷丸乗組
1942年(昭和17年)4月30日横須賀第一海兵団附
 8月15日横須賀鎮守附第六特別陸戦隊附
1943年(昭和18年)2月15日第三特別根拠地隊附
 11月25日戦死
ギルバート諸島において敵陸部隊と交戦
同諸島所在部隊玉砕の際に戦死したものと認定


軍歴からわかるように、祖父は望んで戦争に参加したのではありません。徴兵制度による兵役期間満了後、 召集令状(所謂「赤紙」と呼ばれたものです)により召集され、そして、その3年後に戦死しました。
墓標に刻まれた祖父の亡くなった日付は11月25日です。
タラワの戦いで亡くなった方は全て同じ日付になっているはずです。が、これはあくまでも【認定】の日付です。実際 タラワに当時いらっしゃった方でこの日付まで生存していた方はほとんどいないのです。

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