参加して
今回の旅で感じたこと、ギルバート諸島は、タラワ環礁は、ベティオ島はとても美しい島だったということです。
渡航するまで、【恐怖の島】【玉砕の島】【悲劇の島】多くの方が亡くなった島には負の言葉がまとわりついていました。哀しみだけが
この島にはある。そう思っていました。しかし、訪れた島は陽気な人々の笑顔に澄んだ空気、海、明るく美しい島でした。
米国軍の上陸の際、日本軍の玉砕の際、そこは確かに壮絶な悲惨な光景が繰り広げられていたはずです。木々は燃え、爆撃が繰り返され、
そして多くの人が亡くなりました。それは私たちが目にした海や砂浜の色が血で染まる程の惨劇でした。
ただ、祖父も祖父と一緒に亡くなった方々も、その瞬間まで懸命に生きていたはずです。タラワについて書かれた書物には、現地で
行われた演芸大会の様子を記したものもあります。束の間の楽しい時間を過ごしながら、この地で確かに生きていたのです。
透明な海、珊瑚のかけらで出来た砂浜、満天の星、そういったものに心癒された時間もあったのではないか、あったらいいなと思います。
残念ながら私の手元には祖父が現地から送ってきた手紙類はありません。当時東京に居を構えていたため、空襲で全て焼けてしまった
そうです。ですので、現地での生活や感じたことを知るすべはありません。どんなことを感じ、何を見ていたのか、心休まる時間は
あったのか、それは想像することしかできません。
今回の旅の中で、世代を超えて1つの部屋に集まり、それぞれの想いを語り合う機会が多々ありました。
Mさんから、お父様から送られてきた手紙の話を伺う機会がありました。夜船に揺られているうちにうたた寝して
しまったことや、子供の夢を見たこと等が書かれていたそうです。遠い島から家族を想うお父様のお気持ちが伝わってくる内容でした。
また、1人部屋同士、ちょこちょことお部屋にお邪魔させていただいたAさんからは、お父様が亡くなったことによる、その後の生活に
与えた影響や複雑な気持ちについてのお話を伺いました。戦争が終わったからといって全てが終わるわけではありません。遺族の
その後の生活、環境にも多大な影響を与えているのです。それは今でも続いています。
Sさんのお名前はお父様が付けてくださったそうですが、生まれる前に戦地に赴かれたため、Sさん自身にお父様と一緒に過ごした記憶は
ないそうです。
お父様に付けていただいたとおっしゃっていた名前、それをとても大事になさっている様子が感じられました。愛情のこもった名前。
本来ならお名前だけではなく真正面から向けられていたであろう多くの愛情を直接感じることが出来ないまま、そして与えたい愛情を直接与えることができない
まま遠い地で亡くなったお父様の想い、その無念さは想像に難くありません。
お子様に当たる方々は、皆さんなるべく「そのこと」に触れないよう生きてきた、そうおっしゃっていました。
思えば私の父も、祖父のことはほとんど
話をしません。今回の旅に出るまで、2歳で戦地に赴いた祖父との記憶がないため余り思い入れがないのではないか、実はそんな風に
思っていたのです。
でも、皆さんのお話を聞くうちに、父も、祖父についてなるべく触れないように生きてきたのではないか、そう
考えるようになりました。
帰国後、現地の写真を見せながら周ったところの話をした際、父はただ黙って聞き、そして目には薄らと
涙を浮かべていました。話し終わった後も、父はほとんど口を開きませんでした。渡した現地の貝や珊瑚の欠片は、父の傍らに今も置かれています。父もまた、言葉に出来ない祖父に
対する想いを抱えているのだと思います。
思い入れがないわけではない、思い入れが強すぎて、そして、多くの複雑な想いがあり過ぎて、触れることが出来なかったのではないでしょうか。
残念ながら私にはその想いを共有することはできません。私が想像する、辛かっただろう、淋しかっただろう、それ以上の
想いが戦争遺児に当たる子供世代の方は持っていらっしゃるのだと思います。
これはおそらく子供を戦争で亡くした、ご両親に当たる方の世代、そして、戦没者の配偶者の方も同様だと思います。お国のためと
送りださなければならなかったその気持ちは推し量ることはできません。戦争に行き、立派に死んでくること、それが美徳とされた時代、
そんな時代は2度と来て欲しくないし、来てはならない。送りだしてしまったことへの後悔や哀しみの中で戦後を過ごしていらっしゃった
方が大勢います。
私が知る戦争寡婦は祖母だけですが、同じように祖母も祖父について多くを語る
ことはありませんでした。でも私が子供のころから祖母の部屋には常に祖父の写真が置かれ、亡くなった後に見つけたものには祖父を想うもの、書き残し
がいくつもありました。
その中の一文です。
「ギルバート諸島に於いて 昭和十八年…戦死す 嘘だ 女は一言叫んでその紙きれを蒔絵の文箱の底に入れた そこから吹雪と氷にとざされる
とゆう荒涼たる北の海がせまって来た」
「黒い絹で女はもんぺを縫った 胸にだいた小さな木の箱を覆った白い絹が女の心を冷たくつつんで行った 女は黙って箱をあけた
中には見馴れた一枚の写真 一滴の涙もなく女の中に青い怒りが沈んで行った」
正確な日付はわかりませんが、おそらく亡くなってから27,8年経った後に書かれたものです。それだけの月日が経っても祖父の死を知った
日が生々しい記憶として残っていたのでしょう。そして祖父に対する想いは亡くなる直前まで、戦後65年、祖父が亡くなってから67年
経っていたその日まで持ち続けていました。
戦争は悲惨なものである、それは私自身が子供の頃からずっと話としては聞いていました。戦争の悲惨さは、多くの方が亡くなったその
事実はもちろんですが、それだけではなく何年経っても何十年経っても消えない、遺族による亡くなった方に対する想いにも現れているのだと思います。
一方姪に当たるYさんと私、続柄は違えど同じ戦後生まれ。伯父と祖父、それぞれ直接会うことも同じ時代を生きることもない私たちでした
が、だからこそ事実を知りたい、調べたいという共通の想いがありました。
そばに感じることが出来ない世代だからこそ、ある意味冷静に事実を捉えていけるのかもしれません。知らなければいけないと思っている
のかもしれません。
祖父は死の瞬間何を考えていたのでしょうか。日本を、家族を守るためギリギリまで戦っていたのでしょうか。タラワの戦いについて
書かれた米国側の資料に、日本軍は最期まで攻撃し続けていたという記載があります。降伏する日本兵は1人もいなかったそうです。
白旗を上げれば玉砕は免れたでしょう。出来ればそうして欲しかった、これは今を生きる私だから言えることです。皆、大切な人を
守るため、懸命に生きていたんだと思います。敵軍に捕まり、捕虜となることは当時の世相では社会的な死を意味していました。ただ、
彼らが最後まで戦ったのは自分のためではなく、国や家族を守りたい、そういう思いだったからだったはずです。自身の保身だけで
圧倒的な戦力の差がある敵に向かっていくことはできません。大切な人達の幸せを心から願っていたからこそ、亡くなる瞬間まで
必死で生きていたのだと感じました。
私がタラワへの旅を考えた原点、祖父の生きた証を知りたい、そのために出来るだけ真実に近付きたい、そんな想いと共に。
タラワに行く前は、1度でいいから行ってみたい、そんな気持ちでした。実際に1度行ってみたら、また訪れたい、そう思うようになりました。
最初、私は祖父を迎えに行かなければ、祖父が亡くなった場所を見に行かなければ、そんな思いでこの度に参加をしました。そして
実際に参加して感じたこと、それは、ひょっとしたら祖父は自分の無念を伝えたかったのではなく、自分が見た景色を、そして、
67年経って戻った平和な光景を私に見せたかったのではないか、そう感じました。タラワの戦いについて調べている時には、
その悲惨さやその中で亡くなった祖父を想い、どんなに怖く辛い思いをしたのだろうと考えるたびに涙があふれて仕方がありませんでした。ところが、実際にベティオ島に入った
途端に、言い知れぬ優しさや温かさを感じました。そして穏やかな気持ちでいられることが出来ました。
切なさは今でも残っていますし、帰国し、改めてタラワの戦いについて書かれた書籍を読みなおすと、実際に見た光景と重なり
辛い気持にもなります。ただ、そこで亡くなっていった方は皆、最期の瞬間まで生きていた、怖さを乗り越えるほどの愛情と優しさに
溢れていたであろうことは決して忘れてはならないと
強く感じています。
ベティオ島はとても小さな島です。今回は主要な戦跡を巡らせていただきましたが、次に行く事が出来たら、島内をゆっくりと歩いて
巡ってみたいと思っています。また、もし叶うのならば、この島で行われる遺骨収集に参加したいのですが、大規模に行われる
ものではないので難しいのかもしれません。
最後に、今回の慰霊巡拝への参加を認めていただいた厚生労働省、そして、同行していただいた団長Yさん、副団長Mさん、何かと
サポートしてくださった添乗員のIさん、フィジーで添乗していただいたKさん、キリバスで案内してくださったAさん、皆さまが
いらっしゃったから、今回の旅が心穏やかなものになりました。本当に感謝しても足りません。
そして、祖父が築いてくれたご縁、団員として一緒に旅をした皆さま、若輩者の私に本当に良くしてくださいました。このご縁は
一生大切にしていきたいと思います。