慰霊巡拝2日目
3月2日
キリバス滞在2日目。
6時半に起床し、ホテルを8時半に出発。この日はタラワの戦いの中心となったベティオ島に渡ります。現在も残っている
戦跡巡りと追悼式を行います。
最初は東端砲台跡へ。写真は砲台の跡です。海側−南側を向いています。当時の日本軍は、敵襲が南側からくると
想定して、武器を配置していたそうです。実際の上陸は西岸〜北岸にかけて。ここにある2台の砲台は使われることなく朽ちていったのでしょう。
年月からくる劣化は見られるものの、攻撃を受けたような形跡は見受けられませんでした。コンクリートの箱状のものは、銃座の跡なのでしょうか。
ここでタラワで亡くなった祖父を含む親族を偲んで慰霊を行いました。初日の慰霊と同じように台を準備して
いただき、お供物とお線香を供えました。私は、慰霊後海に日本から持ってきた水を流しました。これはタラワに行くと決まった時から
考えていたことです。
珊瑚の島であるタラワでは飲料水が不足しています。環礁故土を掘っても塩水しか出てきません。飲み水は雨水頼りだったそうです。
照りつける、湿度の高い暑さ。戦時中にここで過ごした方々も
きっと水不足で苦労していらっしゃったはず。日本のお水を飲んで欲しい、そう思って持ってきていたものです。
そんな中、Mさんがコンクリートの建物の横で亡きお父様に宛てたお手紙を燃やしていらっしゃいました。口に出来ないお気持ちを
したためたものだそうですが、きっとお父様に届いていると思います。
次に向かったのは追悼式が行われる、南タラワ・ベティオ島平和記念公園です。ここは元々佐世保鎮守府第7特別陸戦隊の本部や宿舎があった場所だそうです。
その中にある「南瀛之碑」という記念碑の前で追悼式が行われました。
平和記念公園といっても敷地はせまく、中にあるのは高射砲と慰霊碑のみ。
フェンスで囲われた敷地の中、更にフェンスで囲われた中に慰霊碑はありました。
これは1982年にマーシャル方面遺族会により建立されたものとのこと。十字架を背負った
マリア観音像は、北西、日本の方に向けて建てられているそうです。また、同じ敷地内には韓国の方が建立したの方の慰霊碑も建っています。
タラワでは日本人兵士のみならず、軍属工員として召集された韓国・朝鮮人の方も多く亡くなっています。
追悼式の際にはお供物を置いた台の手前にある少し低い台の上にそれぞれが持ち寄った写真を置かせていただきました。団長のYさんに
よる「追悼の辞」、そして、遺族代表のKさんによる「追悼のことば」の後、参列者1人1人がお焼香。この追悼式には私達慰霊団の他に
そして、案内をしてくださったAさんの他、キリバス日本人会の方やJICAからキリバスに赴任されている方など計6名の方が参列してくださいました。
日本から慰霊団が来ると聞き、駆けつけてくださったそうです。
写真では分かりにくいのですが、右側の赤い花輪がかかっているちょうど後ろあたりに、下里梅子さんという方の歌を碑にした
ものがあります。
【この礁の何処に果てし君ならむ、足裏の砂に血のほてりくる】
下里さんのご主人様もタラワで亡くなったそうです。この
言葉は遺族共通の想いでしょう。タラワの戦いの後、海岸は日米両軍の戦没者の血で染まっていたそうです。また、この地の何処で
誰が亡くなったのか、詳細がわかることは永遠にありません。
慰霊碑の外側のフェンスの中には錆びた高射砲が残されています。そのすぐ後ろでは、キリバスの方が普通に生活をしています。
彼らはこれを見て何を思っているのでしょう。私達は戦没者の遺族です。戦争により大切な人を失った、その哀しみが癒えることはありません。
でも、この国にとっては、侵略をした日本人も攻撃をした米国人も加害者です。第3者により自分たちの国を侵略され、戦場となり、焦土
とされたのです。それを考えると複雑な気持ちになります。旧日本軍はベティオ島を拠点にするにあたり、そこに住んでいた方を別の島に
移しました。戦略的なものがあったのでしょうが、そのため、タラワの戦いの際にキリバスの方が巻き添えになることはありませんでした。
また、旧日本軍による暴力行為や殺戮もなかったそう。そのことは唯一の救いです。