出発から到着まで
2月26日
いよいよ当日。この日は成田東武ホテルエアポート「松の間」で行われる結団式に参加後、そのまま会場のホテルで前泊予定。
遅刻しないよう余裕を持って家を出たら早く着き過ぎてしまい、ホテル内のレストランで昼食を取りながら受付時間15時半まで待機。
開始予定時間(16時)前に全員が集合し、予定時間を繰り上げて結団式が開始となりました。
今回の慰霊巡拝参加遺族9名、厚生労働省からは団長Yさん(男性)・副団長Mさん(女性)の2名、添乗員として同行していただく旅行会社のIさん(女性)、そして旅行会社の担当の方の計13名での結団式。
まずは厚生労働省の方からのご挨拶があり、その後参加遺族の紹介、添乗員の方から注意事項の案内や必要書類の記入に関する案内があり、結団式は約1時間で終了。
おごそかな雰囲気のものかと思っていたけれど、説明会に近いものだったので拍子抜けすると同時に形式ばったものでなかったことに少しほっとしました。
孫の参加は私1人。
他の参加者の方は、お兄様を亡くされたHさんとNさん、お父様を亡くされたMさん、Aさん、YさんとSさんのご姉妹、唯一の男性Kさん、Nさんの介助者として参加された姪に当たるYさんの計9名。
後に厚生労働省のMさんがおっしゃっていましたが、ここまで女性ばかりの慰霊団は珍しいとのこと。通常女性の参加は7割くらいだそうです。
現地で行われる追悼式では、団長Yさんが「追悼の辞」を、遺族代表としてKさんが「追悼のことば」を述べることになりました。
結団式後は翌朝の出発まで自由時間。ホテルの送迎バスを利用して成田空港に行き購入し忘れた物を調達したり、コンビニエンスストアに夕食を買いに行ったりしながら時間を過ごしました。
2月27日
ホテルで朝食後、10時20分にロビーで集合。この日は移動日で、まずは韓国。その後フィジー向かう予定。飛行機はいずれも大韓航空です。
成田―仁川は2時間40分。今回の参加者の方は西日本の方が多いので、成田から韓国…ものすごく遠回りなんだろうなぁとお気の毒な気持ちになる
。ちなみに私は東日本在住、成田空港へも車で行ける範囲だったので、世の中の方が口をそろえて言うほど不便な空港とは思っていません。
仁川からフィジーに向かう飛行機の出発まで約4時間もあるため、仁川空港内をふらふらと歩きまわる。やることもないのでとにかく歩きまわっていました。
途中免税店で現地での移動を楽にするためリュックを購入。
最初は1人でふらふらしていましたが、ぐるぐる回っているうちに他の参加者の方と合流、さすがに歩き疲れてぐったりしてきたのでお茶をしながら搭乗時間を待つことにしました。
機内は満席のようで、これだけ搭乗時間も長い国なのに旅行客が多いことにびっくり。
日本人の方も結構いらっしゃる様子です。2月って、旅行シーズンではなさそうなんですが…卒業旅行か何かなんでしょうか。
映画を見てしまうと眠れなくなりそうなので我慢。機内食を食べ終わった後は座席についている画面で今どこを飛んでいるのかを見ながら隣の席のAさんと歓談。
成田から仁川、そして九州・関西・関東・伊豆諸島と日本の上空を横断して南下、フィジーへ。日本からフィジーへの直行便もないので仕方がないとはいえ、非効率なルートです。行ったり来たり…。
現地は日本時間+4時間(本当は3時間なのですが、サマータイム実施中でした)、ここで寝ておかないと時間に身体が追いつかなくなってしまいます。
ましてや現地は常夏、気温差は20℃以上です。急な気温変化で体調を壊してしまったら、肝心の慰霊が出来なくなってしまったら一大事です。
そんなことを考えながら就寝。
2月28日
現地時間で9時(日本時間5時)過ぎにナンディ着。
空港では現地の方が楽しげな歌を歌って出迎えてくれました。貝殻で作ったネックレスを首にかけていただきます。
フィジー国内は現地旅行会社に勤めていらっしゃる日本人スタッフのKさんが案内してくださいました。到着時間が早くホテルにはまだチェックイン出来ないため、しばし観光。
慰霊の旅なのに、観光なんてしていていいんだろうか…そんな思いがよぎりながらも、移動の合間合間にどうしても出来てしまう
時間を埋めるべくスケジュールを組んでいただいたことに素直に感謝する事に。
それにしても暑い!焼けるような日差しです。日本の夏は半年も前、2010年の夏は猛暑だったんですが、日差しの質が違うような気がします。太陽の直撃を受けているような感覚です。
コースはフィジーではメジャーな観光ルートです。まずは【ビセイセイ村】。フィジー人の祖先の方か最初に定住したとされる村だそうで、大統領の選出も多いとのこと。
もちろん生活していらっしゃる方もいらっしゃいます。
前大統領(確か)のお家もあります。大きな木になっているのは「パンの実(bread fruit)」。主食として食べられているそうで、調理法は煮たり焼いたり揚げたり…日本人の味覚だと
パンというよりもじゃがいものよう。
風景も人々も、これぞ南国、という感じです。
その後はガーデン・オブ・スリーピング・ジャイアントへ。元々はハリウッド俳優の方が作ったプライベート・ガーデンだそうで、見事な熱帯庭園でした。日本の枯山水をイメージした箇所もあります(あくまでイメージなので、私達の知る枯山水とはだいぶ違います)。
多数の蘭の花やバナナの木。トレッキングコースもあるそうで、個人旅行で来ていたら是非チャレンジしたいんですが、勿論今回はスルー。
その後レストランでランチをいただきホテルへ。
フィジーでの宿泊はメルキュールホテル・ナンディです。
タラワから戻った後もこちらのホテルにお世話になります。大荷物の上年齢層も高い今回の旅、1階の部屋にと配慮いただいていたのですが、到着前に大雨が降り、予定していた
部屋が使用不可能になったそうで、この日は2階の部屋となりました。
ここでは夕食前に参加者にとって大きなイベントがあることが告知されていました。厚生労働省の方より、各戦没者の方について調べたことを伝えていただけるそう。
部屋に待機をして呼び出し待ちです。
私は参加前に既に厚生労働省に問い合わせをして祖父の軍歴証明書を取得しておりましたので、当日説明いただいた内容は既に把握していたものでした。
玉砕の島である故、個人個人の現地での生活詳細については調べる術がありません。それは厚生労働省の方であっても同じです。
また、この場で国としての正式な文献ではないため正式な資料として呈示することは出来ないが、当時の関係者の方、玉砕直前までタラワで生活をされていた方の手記や、奇跡的に生還された方の証言などが書籍となって
いること、という説明もありました。
それは当然のこと。事実でもそれを裏付けることが難しいものについては、日本国としての証明とは認められないでしょう。
勿論担当の方はそういった書籍の存在はご存知の上でおっしゃっています。私自身、今回祖父について調べていくうちに何冊かの書籍を手にしました。一兵士であった祖父について触れられている
箇所は当然ありません。それでも記録の少ない地の当時の様子を知る上で大切な資料だと思います。
私自身が調べて知っていることの他、【戦史叢書】に記載されていた内容で該当の箇所のコピーを提示いただきました。
こちらの書籍についても存在は知っていましたが、市販されているものではなかったためいずれ国会図書館で読んでみようと思っていたものだったので有難かったです。
(その後、古書店にて今は絶版となっている戦史叢書のうち、ギルバート諸島の詳細について記載されている、中部太平洋方面海軍作戦の
1と2を入手いたしました)。