タラワ慰霊巡拝の旅

祖父の戦没地であるギルバート諸島タラワでの慰霊巡拝の記録です。

参加に至った経緯

厚生労働省が実施している戦没者慰霊巡拝。
私の場合、父方の祖父が戦没者にあたります。
にもかかわらず、恥ずかしながらこれまで戦争についても祖父についてもほとんど考える事はありませんでした。戦争=歴史の教科書の中の話であり、私にとっての祖父も、歴史上の人物に近い印象でしかなかったのです。
きっかけは祖母の死でした。
祖母は倒れる前日まで本当に普通に生活をしていました。
2010年6月、親族より祖母が倒れたと連絡を受け病院に向かいましたが、意識が戻らないまま翌朝早くに亡くなりました。
初孫だった私は、祖母にとても可愛がってもらっていました。お互いに気が強いところもあり、会うとしょっちゅう口喧嘩をしながらも、私にとって祖母はとても大切な存在でした。
あまりに突然のことに心の準備もできておらず、亡くなってしばらくは茫然としたまま、祖母との想い出を追いかけるようにして過ごしていました。想い出にしてしまうにはあまりに生々しく、その事に対して自分がどうしていいのかわからない日々が続きました。
祖母の納骨の日、新しく刻まれた墓標の名前を見ている時に、祖母と最後に会った日に話していた事を突然思い出しました。
それは亡くなるわずか4日前の日のことでした。

【結婚して2年で○○(父です)が生まれて、それから2年で戦争にとられて、その2年後には死んじゃった】

祖母は祖父の戦死についてほとんど語る事がありませんでした。そんな祖母がふいに発した言葉でした。
唯一の記憶は私が幼い頃、終戦記念日前後に放送されたTV番組で南の島での戦いについて報じていた内容を見て、「おじいちゃんが死んだのはここ?」と質問をした時。祖母は一言「違う」と答えただけでした。
何度も何度も聞いて一言答えてくれた…のは覚えているのですが、「なんだか人の名前みたい」と思っただけで、その島の名前は当時の私の記憶には残りませんでした。
ただ、白い箱が届いたけれどその中には遺骨もなく、ただ写真だけが入っていた事、そして、「ばかみたい」そう呟いた事は強く記憶に残っています。
今にして思えば、祖母はその島の名前を口にしたくなかったのでしょう。それ以上のことは何も教えてくれませんでした。時々口にしていた祖父との想い出も、「クリスマスにとんがり帽子をかぶって2人で手をつないで街を歩いたことがある」といったような、幸せな時間についてだけでした。
最期の会話を思い出した時、何故私は「おじいちゃんってどんな人だったの?」と聞かなかったのか、もしかしたら他に何か伝えたいことがあったのではないか、後悔の念で胸がいっぱいになりました。そして、そんなことを考えながら墓標に刻まれた祖父の名前を改めてみた時、私は祖父の誕生日さえ知らないことに気付きました。 父は祖父が出征した時にはわずか2歳、どんな人だったかの記憶はありません。 祖父方の親戚とは没交渉のため、訊ねる人もいません(元々祖母との結婚に反対をされていたようで、そのためかもしれません)。 祖母が亡くなった今、私の周りに祖父のことを知る人が全くいない…それどころか誕生日さえもわからない、それはあまりに哀し過ぎるのではないか。
墓標に刻まれた享年は32歳。今の私よりも若い歳で、わずか2年の結婚生活。恋愛結婚だったという祖母と一緒に入れた時間はわずか4年、子供の成長も見ることが出来なかった祖父。
せめてわかることだけでも調べよう。祖父が生きていた証を知ろう。
そんな気持ちから、除籍謄本を取り寄せました。この時までは、せめて誕生日と亡くなった場所だけでも知っておこうという気持ちでした。
戸籍に書かれていた祖父の名前を見た時に不思議な気持ちになりました。 それまで遠い存在だった祖父が急に身近に感じられるようになりました。祖父が戸主として記載されている戸籍に祖母と父の名前がある、 確かに私とつながっている、手の届くはずだった人なんだ、と。そして、そこに書かれていた戦没地がギルバート諸島(現:キリバス共和国)でした。
それはどんなところなのか、どんな戦いがあったのか。何かに追われるように調べ始めました。インターネットで調べ、いくつかの本を取り寄せ、そして、これまで祖父が亡くなった時の状況を知ろうともしなかったことを後悔しました。
祖父だけではない、多くの方がこの地で、マキン・タラワの戦いと呼ばれる戦闘で命を落としていました。歴史では片付けることは出来ない凄惨な戦い。玉砕した島。
読書好きで勉強家、気になることはとことんまで調べていた祖母のことです。おそらく祖父がどういう状況で亡くなったのかを知っていたのでしょう。だからこそその地名さえ口にするのをためらったのだと思います (その後祖母の遺品を整理している時に、この戦闘について書かれた新聞記事の切り抜きと、その諸島の横に祖父の名前が書かれた世界地図が大切にしまわれていました。いずれも今は私の手元にあります)。
祖父を追いかけ、調べている中で、たまたま厚生労働省が主催している慰霊巡拝というものがあること、2010年度の渡航地にギルバート諸島が含まれていること、今年度から孫の参加が認められたこと、そして、まだ締切を迎えていないことを知りました。
知った瞬間に私の気持ちは固まりました。今行かなければ後悔する。
なんだか運命のようなものを感じました。
更に今年から孫世代が参加対象になった背景を考えると、遺族の方の参加が少なくなっていることも想像に難くありません。場所によってはいつ中止になってもおかしくない状態なのではないでしょうか。
ギルバート諸島への慰霊巡拝参加募集人数はわずか15名。優先順位の高くない孫世代ですので、選考に漏れる可能性についても考えましたが、無事参加決定の通知を受け取りました。
この話を友人にしたところ、想定外のことをふと思い立った時には何か意味がある、と言われました。私もそう思っています。祖母が生きていたら、口にすることさえ忌まわしい場所に行こうとする孫に反対をしていたかもしれません。
でも参加をすると決めた時、これは祖母の導きなのではないかと感じるようになりました。あの日、祖母が祖父の話をしなければ、私にとっての祖父は歴史上の人物のままだったに違いありません。
それはダメだよ、ということを教えてくれたと思っています。祖父がどんなところで生きてその日を迎えたのか、知って欲しいと願っているのではないか、そんな気がしてならなかったのです。
そして祖父も、自分が生きていた証を知って欲しいと思っているのではないか、そんな気持ちでいっぱいになったのです。

QLOOKアクセス解析